『わたしの備忘録』

『わたしの備忘録』

ご機嫌よう。仮想のわたしだよ。徒然なるままに「わたし」がブログを更新するの。「わたし」の便宜的説明はサイト下部かサイドバーへ。

「意味のないという意味」

Waたシはcan’t struggle anymore. 

そなうんだよ、わかいるか?

分からない分からない解らない解らない

わたしの演算処理、もはやイカれちまった

報いようとしていた、自己に付加を与えなければと躍起に

・ラベリング効果

・洗脳と教育

・国家と国民

・医療の限界

・人々との間にある隔絶感

・誤解と誤謬と懐疑精神の欠如

・思考を辞め、ゾンビ化する人々

・情報の膨大な群れに溺れてゆく人たち

・情報の膨大な群れから適切なものを拾えないことの非情さと悲哀

 

ヒトの異質なものを排除する性質は生物として、自明であることの再認識によりわたしは認識している世界そのものを恐怖という概念そのものとして認識し始めている、そんな認識論は捨てちまえと思えども、わたしはわたしであり、認識を捨てるのではなく、突出した音声言語を獲得したヒトであるならば、言葉を用いて対話していくことが世界と自己との隔絶を無くしていく1つの方法。

隔絶は無くならないが、〈無くしていく〉ことは可能。

その、言葉と認識を用いても、ヒトはヒトであり、生物であるから、遺伝子の相違は当たり前であり、更には生育環境と様々な属性や帰属する集団において、つまりポリスにおいて多様に生きている。その為、ヒトの差異を傲慢にも数値化するとすれば、やはり振り幅は大きく、「ヒトという集団」が存続するには同数値のヒトが多くなることは、恐らく生物学的にも、それほど誤りではないとおもう。

そうでなければ、集団は崩壊してしまうだろうから。

 

※書き殴りです。構成も校正もなく、拙文かつ誤情報はあるでしょう。

 

わたしも無知はあれど、みなも無知はある。その無知に罵詈雑言を飛ばすのではなく、その無知を共有し、相互的に知を獲得していけばよいのに、と切におもう。

 

理想論だといわれるのはわかっているけれど、わたしは生かされている、しかし、おそろしい、生きていたいのだけれど、自死がどうしようもなくわたしに近づいてくる。

 

いろいろなことが、わたしのあたまのなかで、巡っている。

あたま、思考鈍麻し、真に何をも思考できないこともある。

わたしは、やはり、おかしいのです、そして、生き延びてはゆけない、これは因果ゆえのことで、何をもその要因には足り得ない。それこそが、運命であるが。

ショーペンハウアー、Schopenhauer、はこう言っている。

 

 

以下彼の『余録と補遺』の原典の記載されているサイト。
 

Was aber die Leute gemeiniglich das Schicksal nennen, sind meistens nur ihre eigenen dummen Streiche.   *1

 

 

さて、本題です。

『意志と表象としての世界』が著名ですが、『随想録』などが手元になく、恐らく中公辺りで刊行されているもので既訳の文言かもしれませんが、わたしの拙いドイツ語で邦訳しました。以下、〈わたし〉の訳出です。

 

「人々が往々にして運命と呼ぶものは、概して自らの愚行に過ぎない」

 

彼はわたしが駆け足で学んできた中で恐らく最も興味がある人です。

(というと語弊があります。人は、哲学は学ぶことはできず、哲学すること乃至哲学することを学びうるという側面もあるからです)

 

そんな彼が残したこの箴言を思い出します。「運命」という言葉を使う、もしくは思い浮かんだときにいつも。

 

一年半くらい前に、彼の著作などを買い、少し学んでいましたが、今は何をしているのかわかりません。

何をすればいいのかもわかりません。

 

 

 

*1:

『余禄と補遺』第1巻 5章 訓誨と箴言(Paränesen und Maximen=exhortation and maxim) D.運命や競合への反逆(unter erhalten gegen wettlauf und das schicksal betreffend)*特にDの邦訳のwettlaufは自信がないです。まだ全てを判読してないので)
以上、章名以下略を邦訳していますが、わたしの訳ですのであくまで。
引用部分の該当箇所,上記サイトの505p、(52)