『僕と君、私と貴方』という名の脚本を今現段階、書いている最中だ。会話も演出も全て構想自体は終わっていて、時間の合間に遅筆ながら書き起こしている。その脚本のテーマのようなもの、私が考えていることを雑多ではあるが記載しておこうと思う。
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【テーマ】
「人間の相互作用的消費関係における恋愛」
この物語の根底にあるのは、単なる男女における恋愛観のみではない。
人間とは相互的に作用し合って、生きている。この大量消費社会の中でも、人間でさえ消費されているのは自明だろう。それこそ、俳優やモデル、芸術作品に携わる人々(厳密にいえば本人そのものではないが)、それこそ身体自体を売ることも出来る。これは古代ローマ以前より語りつくされていることではある。しかし、現代においてこの課題を再提出したい。
つまり、私たちは、大きな物語を消失した後、小さな物語へと追いやられてきてしまったということだ。これは殊に政治的な意味合いで言及している訳ではない。引きこもりが社会問題になったが(なっているが)、これは現実社会における引きこもりである。一方で、SNSなどの仮想空間がユビキタスになり、私たちは小さなクラスタ(集団)に引きこもりだしている。これは現実であれ、仮想現実であれ、同一の引きこもり行動様式を見出すことができ、更にはその変容も見て取れる、と考えていいだろう。
このことから、私たち現代人は身体的ではなく、精神的な引きこもり状態に陥っているのではないだろうか。つまりは、私たちという個々の物語があるとして、その物語の矮小化が生じていて、彼らは相互的にその世界を消費し合って生きているのではないか、ということである。言ってしまえば、物語の強制と喪失の時代であると私は考える。メディアにおいて顕著であるが、物語性を消費に絡めて喧伝していることは周知の事実だろう。その相互作用的消費活動が、男と女という(セックスやジェンダーによって何通りもあるが)二項対立において、どのような状況を生み出すのか。どのようにして消費していくのか。それを描こうとしている。そして、ここには男目線、女目線というものは特に設けていない。
強いて言うならば、女性性が抱くであろう苦悩を男性性が対面した場合、どのような心の機微が起き、彼らは共存していくのか、この点において考えると、やや男性視点の作品になるかもしれない。したがって、タイトルは「男→女」という序列に置いた。男女という言葉からも分かるように、言語においてその「性の歴史」が垣間見える。しかし、あまりにもそこに躍起になると、単なる言葉狩りになってしまう恐れがある。私が意図的に意味を込めようとするならば、既存の「性」認識に対する一種のアンチテーゼとして、このタイトル名があると言えるかもしれない。「僕」「私」「君」「貴方」、これらは、今やどれも、誰もが使い得る一人称、二人称である。以上、僭越ながら、大まかなテーマ概観を行わせて頂きました