『僕と誰かのお話』
—2010年以降のお話であるとだけ明言しておこう。そうだ、君たちにとっては、21世紀は既に歴史として授業で扱うような時代かもしれないね。まあそんなことはどうでも良いか。さて、この話は作為的にぼかして記述している点がある。そして、掌編とも言い難い程の短さだ。これは僕のちょっとした記憶の整理なんだ。だから君は意味内容まで追わなくてもいいんだ。記号として読んでみたらどうだろうー
ショウペンハウアー 『余録と補遺(Parerga und Paralipomena)』
「Was aber die Leute gemeiniglich das Schicksal nenne, sind meistens nur ihre eigenen dummen Streiche.」
「しかし、人々が普通運命と呼ぶものは、殆どの場合、自分の愚行に過ぎない。」
僕たちは、とあるインターネットにて知り合った。その頃、ある場所に僕は書き込んだ。「緩やかに生きたい」と書いた気がする。そのワードから恐らくこれを読んだ君たちはインターネットという海底に沈殿するヘドロのようなログの堆積を前にして、「あ、これかな?」と探り当てることも可能だろうね。
これを読み、それを見つけ出すのなら、君たちもまた僕という人生の加担者になるよ。それでも良いのならご自由にね。
まあ、それはどうでもいい話だね。どうせ、一度でも膨大に広がる情報群・ネット網に放り投げた言葉だ、もはや僕の言葉ではないのかもしれない。なぜなら、宛先の相手がもはや居ないのだからね。
話を戻すと、それにたまたま反応した人が僕に返信をしてくれたんだよ。箇条書きで書いた僕の情報群を選んだんだよ。確率論的に言うとどの程度なんだろうな。当時の僕たちの精神状態を加味すると環境を広げられるのは仮想空間の中でしかなかったのかな。と考えると、割りかし妥当な出会い方、妥当な確率で出会ったのかもしれない。
いわば、出会いカフェや、合コンなどを利用するかどうかの話みたいなもので、心身ともに必要とされるエネルギーは仮想空間の方が少ないだろうからね。
そこでメールのやり取りをした。
1週間くらいかな、長文でやり取りした。
そして、自分たちを語った。
そして、通話をした。
そして、色々な心を知った。
そして、好きになった。
そして、会うことになった。
いざ、会うとまあ確かに自称してただけあるし、美しかった。
(ここが難しいところで、その時、外見でビビッと来た訳ではない。後々、容姿もドンピシャに好みとなったからだ。未だに謎だけど、たぶん人は恋をすると、うん、そうだね、男女問わずだろうけれど、人は愛というものに近付いていけばいくほど容姿すら変わるんだろうね。ホルモン的に考えられる点もあるだろう)
そして、まあ色々とあって、穏やかな日も沢山あって、激情に駆られる日も沢山あって、本当に結婚を考えて生きて居た。
「あっ、僕はこの人と結婚するんだろうな」という初の実感は、今思えば功罪があったよ。結局は、別れた訳だから、まあ仕方ないけどね。
複合的な要因が僕たちを切り離した。
いいや、僕が切り離してしまった。
理解できないのではなくて、受け入れることができない。そうしているうちに、僕はいつの間にか、幾年も呆けて生きていた。生きてすらいなかった。死んでないだけで、それは生を体現しているとは言えないものだった。
君たちは思うだろう。「では、今は?」と。
そうだね、今がいつなのか、これを書いているのがそもそも本当に今日なのか。それとも明日なのか。数年先なのか、それは僕にも君たちにも分からないことなんだ。
人は時間によって支配されているんだ。時間を認識出来てしまう、つまり未来を想像できる生物であるからこそ、その時間という枷を身に付けたまま生きるしかないんだ。時間によって世界は存在しているんだ。時間が実存を与えるんだ。ハイデガーという哲学者が居た。彼は時間と存在について思考した人物だ。色々とあったから、評価も別れたりするんだけどね。
まあ、こんな話をしても面白くないね。もし、君たちが〈本〉というものを手に入れられるのなら読んでみるといい。僕の言葉はあくまでそれっぽい戯言でしかないはずだからね。
そろそろ、時間が来たようだ。僕に実存を与える為に時間が否応なしに迫ってきている。じゃあ、また会うことを期待して筆を休めることにするよ。
「またいつの日かね」
—終—
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