『わたしの備忘録』

『わたしの備忘録』

ご機嫌よう。仮想のわたしだよ。徒然なるままに「わたし」がブログを更新するの。「わたし」の便宜的説明はサイト下部かサイドバーへ。

近況報告

どうも、御機嫌よう。

大変久方ぶりの更新となりました。諸事情により、前々からのことではあるのですが様々な方へ愚生の責務を全う出来なかったことなどにつきまして、ご迷惑をお掛けしましたこと、ここに深くお詫び申し上げます。

 

 

あくまで、ここは私のブログであるため、この先は割とプライベートと言いますか、基本的な私の指針や信条などをお話するとともに、ここ数ヶ月の雑感を述べたいと思います。

 

とは言え、何から話せば良いのか、皆目検討が付かないほどに私の日常は波瀾が多く心身が酷く疲弊するほどでして、つまりこうして冗長に言葉を並べてしまうほど、ということなのです。という訳ですので、順不同に徒然なるままに記します。

 

 

私は、基本的に自分に余裕があるときは人様に対して、善意を最大限示したく思っています。これは、哲学における議論においても厄介な点であるのですがそれは置いておきましょう。(簡単に。要は善的行動をしようとしようと思っても、真に無意識からの善意はあるのか?ということで、偽善的になりうる可能性との二項的な矛盾みたいなものです。齟齬や明らかな誤情報などありましたら申し訳ない。)

それでですね、なぜ私がそうすることにしているかと言いますと、今だからこそ応答できるようになりました。(と言いましても21才くらいの時分にはそうでした。現、25才です)それは、「人もしくは社会に善的行為をもたらすことは、そもそも役に立ちたいという思いから発生していない、別の理由から起きている」のです。

 

さて、割と、絡んできたコード類のような文章になってきたように思いますが、一気呵成に書いているのでご容赦ください。

 

もう少し、詳しく言及します。つまり、私は私が単に、私でない場合を顧慮した場合その行動(善的、と一応表します)が自動的に遂行されるのです。これでも、まだご理解に届かないやもしれません、拙文ゆえ申し訳ない。

俗に言えば、私は自分がしたくてしているだけで、他者にも社会にも本当は興味があまりないのかもしれません。事実、「人間」という概念ないし社会的に称される民衆が好ましく思えません。全ての「人間」ではありませんよ、もちろん。ただ、好ましく思えない割合の方が多いと明らかに感じるのです。

まあ、こんなところで、この話は終いとしましょう。

 

しかし、ここから派生して次の話に移行します。

その割合、つまり好ましく思えない人間はない人々がやはり、存在するのは当然のことでして、その人たちに遭遇すると私は、世界を完全には嫌いになれないのです。という、まあ、非常に語り尽くされてきたことを記していますね。まあ、大目にみてください。

 

 

先日、家電量販店に行きました。

そこでも、私の心をほぐしてくださる方がいました。そのあとに寄った喫茶店のマスターにも同じく、琴線がくすぐられました。だから、私は、まだ死ねないのです。

「生きねば」と口からこぼれ落ちてしまうほどに、自然な機微の揺らぎが起きたのです。そんなこんなで、しぶとく生きてしまっております。

そういう人たちが、私は愛おしく思えてなりません。臆面もなく言えます。

だからこそ、彼らのために、私は何かしなければならないと思っています。

 

 

とりあえず、一旦ここで筆を休めさせてもらいます。

加筆、もしくは新しく投稿するのはいつになるかは分かりません。すみません。

 

追伸(完全なる独りごちです)

恩師にお会いしたいですが、体調不良や先生のご多忙さを存じておりますし、何より私なぞに割いていただく時間が申し訳なく、そんなこんなでメールもご返信せず、そして、最後にお会いしてもう半年以上はゆうに過ぎてしまいました。

近々、お話を、腰を据える形で僭越ながら、お願いしたいと考えています。