お久しぶりです。いつもありがとうございます。
わたしたちは日々思考をしている。それが意識的か無意識的かどうかは、また別の議題であるのでひとまずは「〈過度に考え続けてしまうこと〉への力加減を意識的に調整してみる」ということを考えたい。
知、フィロソフィーに対する敬愛度合いがわたしは割と高いのだと思う。それは時に、強迫的ですらあって自己だけでなく他者をも傷つけ得ることを再認識したい。
そして、病状としての部分を自ら肯定した上で、対応を緩やかに行なっていきたい。
そして、生きる為に無意識的に行なってしまうであろう〈自己の正統性や自己の神化〉などについて、わたしは我が身を改める必要があると、再認識できた。とても幸いなことです。
だけれども、一先ず考えるべきこと、そしてそれらを考える為に費やしてよい体調ではある、なんとか。だから、それらをまずは紐解いていき、快方、良好、寛解、全治、そんな言葉は一切度外視しても良いと思う。それらは、目標ではあるがそれ自体が重荷になるのならば、刹那の連続を能動的に、受動的に、生きていくことが案外よいのかもしれない。
色々な人々に、わたしは、わたしたちは、育てられる。そんな自明なことを痛感する。
そして、愛おしい人たちがどんな速度であれ、段階的に健やかになっていくことを知った。
例えば対人関係において、「自分自身がとある愛おしい人間をより善き方へ、共に、歩む手助けとなりたい」とおもうことは必然かもしれない。
なぜなら、そこに形容化、言語化できぬ何かを見出しているからだとおもう。
わたしは、それを酷く意識し過ぎていた。
そして、時間が経ち、様々なもの、様々なことが変貌していった。
すると、当時でも思えていた、「わたしでなくとも、他の誰かがその人を、どうか、幸福に」という烏滸がましい願いが、今となっては、異なる気持ちで思考されている。
結局は、言語にはどうしようもない限界がある。
そもそも人間存在が多種多様に生きている以上、世界は様々なものに溢れている。それは至極当然なのだけど、生きていくには限られた帰属集団や社会などの枠に入らざるを得ない。それは、《人間にとって、世界が巨大だと認識されつつあること》も絡んできて、わたしたちは、どう生きていけばよいのか、何が正しいのか、問いばかりに囲まれている。
そんな風に感じる。
世界の広がりというのは比喩でなく、事実仮想空間において如実に現れているのは言わずもがな。実際の、その広がりを目の当たりにすると、困惑するにきまっている。世界そのものの情報量が人間という一個の動物によって処理できるものではないのはいうまでもないことですよね。
だけれども、それを処理しようとしてしまうことは往々にしてあるでしょうし、その情報の整合性や信憑性、あらゆる功罪となる問題点を孕んでいる〈情報群〉にわたしたちは立ち向かっていますが、五里霧中でしょう。
※申し訳ないですが、この数年、世界の、国内の思潮を追うことができていません。時事さえもあまり。
だけれども生きている以上なんとなしに感ずる所から思案しています。ですので、その点お読みいただく上でご留意願います。
しかしね、ことば。言葉を、言葉は、言葉だから、わたしはどうにか言葉にならない言葉たち、要は言葉を与えられていない感情たちに、畏れながら言葉を付与したいと思い続けています。
たぶんそれは、愛おしい人たちの為に、わたしの出来る範囲の分野で貢献したいからなのでしょうか。
畢竟するに、目下わたしは、「わたし」と「わたしたち」そして、「あなた」の為にすべきことをするだけです。
わたしは、わたしをまずは一から見直すことを試みる。そうすると、時期尚早的に他者と関わるよりも、結果的に互い互いが良い関係となり得る、と部分的に肯定できます。つまり、推奨できます。関係性など仔細により変わるのであくまでわたしの話ですけども。
それは、そのように表現可能な経験をできたからです。
だからといって、全て時が何かを解決し、自分が望むことを与えてくれるとは限らないことも分かっていましたし、それが存外見当違いでなかったことも、なぜか安堵しました。望むものは変わります。というか、全てが可変的であり、不可逆であり、不変性は何に求めるか、という問いくらいしか、私は不変的なものについて語れません。
そのくらい、不変というものは、巨大なものだとおもいます。
いつもながら、論理があるのかないのか分からない、見苦しい文章ですが何となく今思ったことを記せたと思う。
なので、改稿、改変、誤字脱字、あるとおもいます。
それこそ、可変的であるな、と。
では、おやすみなさい。