福山雅治、本人が自分自身の作詞・作曲の 『Squall』 をカラオケで歌ったら採点はどうなる!?
そういうこと。つまりはね、レコーディングされたものは完全版なの。それは再現可能かと言われれば可能ではあるけれど、その再現性には意味はあまりないと思う。
何故ならば、本来、音楽とは、録音などされず《常に音が産まれて、そして消えていく》という音の循環を瞬間瞬間、人々に届けていたから。
だからといって、レコーディングされた曲がどうだこうだ、ということにはならない。だがそのように突いてくる人はいるだろう。そのような曲解する輩は音楽を冒涜しているのだよ、それは君が望むことなのか、とわたしは問う。
話を戻します。
むかーしから、ひねくれたガキでしたから、テレビ番組を批評的に、そして嘲りながら観ていることがありました。その中で、カラオケの採点機能を用いて順位を競う番組が流行りました。というよりも、流行らせましたね。そして、まんまと流行に呑まれていきましたね。わたしは全てみてました、その過程を。
いいでしょうか、わたしは個人的にこれに対して、何も表明していません。
言えることは幾つかあります。
・資本主義的かつ道理的なマスメディアの苦渋の選択(分からない。業界における善悪の寡多を知らない。とりあえず無難に、苦渋とした)
→つまりは、例えば、綺麗事ばかりじゃ生きてけねーよ、だから視聴率取んなきゃ!という状況など。
・そもそも、音というものは何か?ということ。これは門外漢のわたしが言うことではないですが少しだけ。西欧の音楽理論だけで、世界の音が表現できる訳がないということ。音程?微分音は?などなど、さして詳しくもないわたしでも気が付きます。
規程のこと。ルール。なんでしょうかね。基礎というのは大変重要ですよ、当然ながら。
ですがね、そればっかーりになってるとほんっと、伽藍堂のまんまなんですね、わたしからしたら。
「それって、じゃあ、奇を衒うことが、絶対であるの?」
いや、そんな訳ないだろう。
それは言っておきたい。
もう、共通項があまりにもあって、たいへんだ。
つかれました、タイピング。
ともかく、世の中、こだわりすぎじゃない?違うベクトルで。
わたしはわたしで変なこだわりありますけど笑
それとは別で、社会的になんだか、強迫的な拘りというか固執があるな、と。
まあこれは忘れましたが、何かで思想体系化されている事柄では?
そんな感じでおしまいです。
たまたま、YouTubeを開いたらこの動画が出て、あー、となりまして。そもそも昔から考えていたことなんで、いつか出そうと思ってたところ、まあいま、とりあえず書き記すか、という次第です。
「生演奏って、音楽そのものって感じ」というわたしのふとしたあの時の感情はあながち間違いではなかったのではないでしょうか、どうでしょうかね。