『わたしの備忘録』

ご機嫌よう。仮想のわたしだよ。徒然なるままに「わたし」がブログを更新するの。「わたし」の便宜的説明はサイト下部かサイドバーへ。

『収束する言葉たち』


 眠れない僕は糸筋ほどの朝日を背負って、産まれたばかりの、声なき白い蝉を見た。
 不眠の原因は特に無かった。誰かが死んだとか、自分の身に何かあったとか、そんな類のものは一切無かった。今夏が記録的な猛暑であったとしても、僕には関係が無かった。ただ漠然とした不安は何故かあったが、これはもう一種の性格と言って良かった。原因が無いなんてそれこそ「無い」んだよ、そうなると逆に良くないね、うん。医者はそう言っていた。こう見えても、不眠を侮ることはせず、自分で医者に掛かりに行ったこともあった。それでも、原因療法を望む気にはなれずに、対症療法をお願いした。
「僕としては、朝方に用事があると困りますので、とりあえず様子見で眠剤を頂きたいんですが」
「うん、そうか。そうだね。何か心当たりがあればまた来なさい。夏バテかもしれないしね。お大事に」
 用事なんて無かった。夏が終わるあの朝の、あの透き通った冷涼を感じるために眠剤は必要だった。今年の夏は猛暑ながらも、日陰に居ると存外過ごしやすかった。冷房が嫌いで扇風機をつけて窓を開けている。薬を貰っているのだから夜までは寝まいと思っていたが、抗えなかった。
 雨音のせいで目を覚ますと、夕立が親の仇のように降り出していて、室内は夏の匂いで溢れていた。人の抜け殻になった衣類を洗濯機に入れ、僕は外に出た。思いの外、雨は降ったらしい。街全体に打ち水を引っ掛けてくれたおかげで、思い切った涼しさがあった。家の近辺は都会の田舎、郊外にあたる地域で、整地された道路や左右対称に植えられた木々が所々見られた。それは国道付近のことで、少し路地に入り込むと雑然とした街並みもあって、僕はそこが好きだった。
 少し歩いて小さな公園に行くと、子供が蝉を捕まえていた。「雨宿りしてるぜ、こいつ」「アブラゼミなんかより、クマゼミ捕まえようよ」「この辺には、クマゼミは居ないんじゃないかな。あ、ヒグラシは居ると思う」三人組の男の子たちは虫かごを提げ、右手に虫網を持ち、左手で鳴き疲れた蝉を掴んでいた。目当ての蝉が居ないらしい。
「えー、クマゼミってこっちに居ないのかよ」
「他のなら枝のとこに何匹か居るけど、届かないね」
「じゃあ、山のほうに行ってみよーよ!」
 すると、その中の一人が当てつけのようにして、幹を強く蹴った。鳴き続けていた彼らの声は一層と大きくなり、街全体を震わせた。
 僕にも子供だった時期はあった。あったはずだ。これから歳を重ねる度に所有していた過去を見返すんだろう。嫌になってくる。いずれ、夢想する未来よりも思い出す過去の方が大きくなり、それらが僕を追い立てることは自明だった。僕らが何をしようと、ある季節が終われば別の季節が始まる。帰り道、僕は虚の中で蝉の死骸を見た。
 家路についたのは陽が落ちた後だった。部屋からは夏の匂いが消えていた。僕は夏が、夏の匂いが、夏の空気が好きだ。夏を嫌いにはなりたくなかった。でも、好きなものの中に吐き気のする表情を見つけてしまうことがある。大規模な打ち水のせいで、今度は蒸れている。汗なのか湿気なのか判別ができない。冷凍庫から氷菓子を取り出して高窓付近に座った。濃くて生暖かい塊が身を打ってくる。僕は氷と思考を溶かすように食べ続けた。
 眠剤のおかげで気怠い眠気はあるものの、早朝に瞼が開いた。窓の外からは何も聞こえない。産まれたばかりの蝉がまだ鳴いていないのか、それとも蝉は死んだのかわからない。ヒートアイランドとは程遠いこの街はまだ眠っていた。風は無く、ただひっそりとそこには冷涼があった。
 僕は夏の終わりを感じた。ある朝の、ある風の、ある匂いを、ある温度をふと感じる。これが来ると僕の夏は終わる。
 次の日、今年最後の、鳴き声を聞いた。
 
 
 
***
 
 
 
 夜中であっても隣室から談笑する声が聞こえてくる。住んでいる賃貸アパートは鉄筋コンクリート構造で、遮音性に長けているはずだった。僕にはそれが自分を嘲るように思えてきて、逃げるようにして街を逍遥するようになっていた。
 アパートから少し道を抜けると、国道沿いに出ることができた。そこには無音の音があるように思えた。音がないという音が聴こえる。それが自分を落ち着かせてくれた。
 住宅街を怯えながら国道に出ても、その道中では車の往来や人の気配はほとんどなかった。こうして僕は街が眠っていることを感じることで安心していた。しかし、不規則に点灯する街頭に照らされ、僕は微かに震えた。死にかけの光に脅かされ、呼吸がふと荒くなる。気付けば、この静寂を喰らう程に身体の鼓動が脈打っていた。
 しばらくして、這うようにして家路についた。部屋の壁面は静かだった。程よく疲れた僕の体はベッドに心地よく沈み込み、すんなりと夢に落ち込んだ。
 眠りから覚めて、ベランダに目を向けると地面のコンクリートが徐々にその色彩を暗く変えていた。変な生き物のように斑点模様が増えていく。やがて、その地面から鈍色が消えて、どす黒くなっていった。今日は、今日も、雨だった。よく分からないけれど、多分そう。
 布団からはあの女、彼女の蒸れた匂いがする。湿度は上がっていき窓辺には結露した滴が緩やかにたむろしている。随分と前のことなのに酷く彼女の気配がした。
 そうか、彼女がこの部屋に来てもう一年以上経っているのか。だとすると、一か月程度居なくなったとしても、あの人がこの部屋から消える訳ないか。それだけ僕たちは肉体的にも精神的にも近づき過ぎたのかもしれない。それこそ、自分と相手の境界が曖昧になるくらい。
 
**
 
 言葉は僕たちの関係に何かしらの説明を与えてくれるだろう。しかし、それは単なる説明だけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。大した効力もなく、それらはただの言葉という畜群だった。知識は必ずしも運用できないことを知った。言葉の浅薄さを知った。過ちの中に落ちることを知った。僕たちは思想の上でも食い物にされ、社会の一現象に過ぎないことを知った。彼女の言う通りだった。僕たちには何も見えていなかった。見られているだけだ。
「あなたって共感能力が高いんじゃない? それだと生き辛いでしょ」
 何時だか彼女はそう言っていた。その通りかもしれない。だからこそ、どこかで僕は無関心に君を見ようとしていた。そんなことを思い出させる君が憎かった。部屋は彼女の記憶で横溢していた。僕と彼女の間にあったモノが普遍的なものなのか、特殊的なもののかはわからなかった。そこにはいつまで経っても、僕たちの無力な言葉が漂っていた。
 しかし、僕たちの時間と思考は反して累々と堆積していく。そして、僕は僕の言葉を持って、彼女の場所に戻ろうとしていた。彼女の言葉を掴もうとして。
 あれから一か月が過ぎようとしていた。
 
 
 

 
 


**
 
 彼女と出会ったのは昨年の秋だった。ちょうど秋のあの独特な匂いがする頃だった。あの時、僕は仄かに冷たく、そして透明な匂いを確かに感じていた。そんな折に、僕はネットの掲示板で彼女と出会った。いわゆるメル友から発展した恋だった。
 いざあってみると、彼女は「今まさに」こちらを見つめているような、それは自然なことなんだけれど、それが不自然に思えるほどの眼光を持ち合わせていて、奇妙な不思議を感じた。客観的にみれば、容姿は整っていて、引く手数多だろう、という印象を覚えた。だが、その時の僕の好みではなかったし、何より当時は人という物体に興味が湧かなかった。だからいつも人と話すときは相手の話していることだけに集中していた。目線は相手の後ろを捉えて、虚空を眺めているのを悟られないように鼻のあたりをたまに見ていた。
 彼女との初めての対面においてもそれは変わらず、僕は彼女の声帯から放たれる言葉だけに集中していた。しかし、彼女はそんな僕の所作を、ものの数十分で看破した。彼女に言わせてみれば、「あなたの眼球は明らかに私を捉えていないんだよね。人一倍目線に気が付く私だからわかるんだと思うけど」ということらしかった。妖艶で虚ろな瞳から放たれる彼女の眼光は、人一倍鋭利な刃物みたいだった。
 それは何故か、僕の興味を刺激した。そして、その刃物に傷付けられないよう、そっとその瞳を捉えだすことにしてみた。しかし、彼女の瞳には力がなく、眼球は微かに揺れている。つられて、僕は眩暈を感じた。地面に足がついているか分からない。すると、彼女は突然僕との間合いを詰めて、白目が異常にみえるほど、目を見開いていた。
 その日の夜風は、鼻腔を刺す冷気があり、それが心地よかった。秋と冬の移ろいを感じた。
 

 
 そうして、僕の身ぐるみを軽くはいでしまった彼女と、それ程の期間を経ずに付き合い始めた。相手が男であろうと女であろうと、そういったことによる問題はあまり関心がなく、単純に相手が抱く感情や思考だけに興味がある。そんなことをいつか彼女に話したことがあった。それが彼女にとって心地よく感じたらしい。そうは言うものの、裸同然にされた僕は、〈女性の肉体〉を持っている彼女という存在を目視し始めたのも事実だった。一緒に外出している時、彼女に集まる視線を追体験することが多々あった。ああ、これじゃあ、人の目線に敏感になる訳だなと納得した。
 そして、出会ってからの数日間で大まかに僕たちの遍歴を話し合った。
「私、嘘がつけないから。嘘というか隠し事みたいな気がして。気が引けるのかな。だから私のこと、知っていてくれる?」
 そう言う彼女の瞳から、微かに鋭利さが消えかけているような気がした。かと思えば、彼女の瞳は、今まで見たこともない鋭さにも見える。仄暗い部屋に彼女の二つの瞳が浮かび上がっている。
「うん。教えてくれると僕も嬉しい。君と魂の触れ合いをすべきだと感じているから。こそばゆい言い方だけど、そう思うから、辛くない範囲で」
 僕がそういうと、ほんの少しの間を空けて、彼女は話し始めた。
「私ね、昔、男の人に乱暴されたことがある。だから、男性に……。いや、うん、男の人というか、まあ、やっぱりさ、不信感を抱くことがあると思う。それで不和になりたくないから、だから、最初に言っておきたかった。語弊とか誤解とか、避けられる不和は潰したくて」
 想定していた範囲内の答えだと思った。しかし、身体は微かに震えている。それを無視して聞き続けていた。
「そうだったんだ。大変だったろうね、というか、うん。そうね、既に向き合ってきた君の考えや思想は尊重できると思う。いや、知ろうと考え続ける。ただ悔しいな。純粋な、というと「何が?」だとか考えてしまうけど、取り敢えず、まあさ……」
 沈黙という音が流れていた気がする。秒針が止まったような、クロノスタシスみたくぼくは、彼女に見られていたと思う。
「僕たちの恋愛がそんなもので乱されることが、ただただ悔しい。今、頭の中にひたすらと流れる思いは、そんな感じだよ。好きな気持ちは全く変わらない。僕が捉える君そのものも変わらない、綺麗なままだよ」
 



 
 僕たちの付き合いは一年以上になって、二年だとか三年だとか、分からない感じだった。しかし、何かが起こるときは起こってしまうらしい。我々の自由意志とは裏腹に、いやそんなものがあるから、残酷かつ甘美な運命は豁然とひらけるのだな、と。我々の意志なんてものは名付けられたものでしかないのか。
 僕たちが出会ってから投げ交わした言葉たちが空を舞って、行き先を求めている気がする。僕たちの周りにはいつも言葉たちが横溢していた。行き場のない言葉たちは不規則に運動し続けている。いつか収束するかもしれない、その時まで。
 





 
 外で落ち合う時、僕たちはいつも同じ駅で待ち合わせをしていた。彼女と会う約束をしていたが、夕方のラッシュ時にあたってしまった。人波に押し流されないように改札から出た。少し遅れてしまっている。焦りつつ彼女を雑踏からようやく見つけると、見知らぬ男と会話していた。僕がそばによると、男は「あ、彼氏持ちって本当だったんすね」と言って足早に去っていった。
「遅れてごめん、あれってナンパ?」
「うん、ここってナンパするやつが多いんだよね。待ち合わせに便利だから仕方なく使うけど、ほんとに面倒だよ、あれ」
「やっぱり、ナンパされるよなあ」
「まあ、私くらい美人だとひっきりなしだね!」
「そんなに自慢げに言うことじゃないだろ。心配になるし」
「まあ、私もあんまり良い思い出がないから気を付けてるよ」
「そうだよね、まあ今回は遅れた僕のせいでもあるし、ごめんね」
 当然とも言えることで、だけれど、思考が鈍麻していくのが分かった。何かがおかしい。あまりに彼女が女性で、非情に女性で、そしてボクが同じくそのように男性であることを、同時に纏めて認識させられたからなのか。いまだにボクにはあの時の違和感が拭えない。
 
 
**
 
 
 ある日の深夜帯に彼女は泣きながら電話をしてきた。
「どうしたの? クライアントとの打ち合わせ、終わったの?」
「うん、終わった、もう家に着いたところ」
「それで、何かあった? すごい泣いてるけど」
「私、浮気?しちゃった。あなたに不満があるとかじゃないんだよ、でも最近私たちの関係も悪化してたし、それでさ個室で急にキスされて。もうそれだけで裏切り行為だと思ったし、何よりその、個室だったし、もうこういうことで怖い思いはしたくないって思って、私どうした らいいかわからなくなって。仕事のこともあるし抗えなかった。苦し紛れでもいいから、そこに自分の意思を挟んで被害を抑えようとしてた、ごめんなさい、ごめんなさい」
「うん、わかった。わかったから、とりあえず、タクシーで僕の家まできて」
「はい、いますぐ行きます」
 一気に全身から血の気が引いていくのがわかった。とりあえず、ウイスキーをボトルからそのまま飲み込んで、煙草を延々と吸い続けた。何かしらの動作を継続していなければ、正気を保てなかった。数十分後に彼女が家に来た。玄関の扉を体重で押すようにして開けると、酷くやつれた彼女が居た。そのまま二人は玄関で崩れ、沈黙が生まれた。そして、ぼそぼそと僕たちは、朝まで話し続けた。何に対して僕たちは泣いていたのか、それは今でもわからない。僕は、この関係性がどうとなる訳でもないけど、落ち着いて君自身と僕自身を考えたいから、と言って彼女を始発で帰らせた。
 人は過度なストレスに対する防衛機制を有しているんだなと、身をもって知った。何故なら、あの夜以降、ひどく取り乱すことは無かった。緩やかに、そして断続的に苦痛はやってきただけで、僕は思考を遮断することを覚えた。一人で耐え忍ぶだけなら、簡単だが、彼女との会話となると別の話で、ようやく彼女と会う約束をしたのはあの夜から一か月も先のことだった。
 

 
 一か月ぶりの彼女との再会に、いつもの駅を選んだ。待ち合わせ時刻の三十分ほど前に行くと、彼女は既にそこに居た。
 その曲線美を備えている輪郭から彼女の性質がみえる。彼女に隷属している四肢は女性らしい柔和さと色彩を帯びていて、刺すような清廉さを一層感じさせ、僕は困惑した。人間の精神は肉体という牢獄に囚われていると考えるなら、到底信じられないだろう。彼女はその肉体を精神のもとに従属させていた。それ程までに、彼女の魂は高潔なものだと感じられた。僕たちに何があったとしても、彼女の四肢は何も変わらず僕の目の前に現れることを知った。彼女に心から寄り付く人間は居ない。誰をも見ず、誰にも見られず、そこの空間に彼女だけが配置されていた。傲慢な肉体を無視した高潔な精神だけが、そこに見えた気がした。
 こちらに目線だけ与えていた彼女はそのまま立ち上がり、僕のほうへ向かってきた。僕は彼女の瞳に極彩色を見る。ひたすらに薄く鍛錬された刃物のような輝きは、以前より増しているようにも思えた。
「久しぶりだね。もう良い頃合い? もう少し遅くなるかと思ってた」
「僕もそう思ってたけど、君の顔を見たくなったから」
「それはこっちのセリフ。本当にもう良いの? 憎いでしょ私のこと」
「いいや、大丈夫。でもまあ、愛憎だな。とりあえず僕の家においでよ」
言葉を欲していた僕たちはそれから長い間、話し続けた。「私を。わたしをね、お願い。強くあなただけで、あなたの言葉でなく、あなたそのもので……」そう言われた僕は、男も女も食い散らかした。失われた快楽を求めて。時間も、記憶も、何もかも忘れて、その目の前にいる、その肉体だけを凝視し続けながら。
 

 
 だが、何があったとしても、僕たちのその時の愛は嘘もなく、純粋な欲求で支配されていた。善意よりも悪意のほうが信じられるのと同じで、そこには紛れもない真実しかなかった。その時、どんな言葉よりも言葉らしい行為で、僕たちの関係を表現し合っていた。そこにもはや言葉は必要なかった。愛欲と真実だけがあった。
 

 
 彼女はよくこう言っていた。「私の業は私だけのものだから。あなたはそれを背負う必要はないし、これは本当に私だけのもの」苦しみすらも自分の所有物だと言うことだろう。それはよく理解できた。しかし、僕たちの互いの魂は溶け合いつつあった。僕たちの業は共有され、一つの魂が新たに芽吹き始める。
 そんな中で、僕たちが死について話し出すことは必然と言ってよかった。だが、もしかすると、どこかで陰鬱な物語性に酔いしれていたのかもしれない。理解した気になって、満足していただけなんだ、きっと。こうして自分を慰めて、また目を逸らす、こうしてきたから、ボクは、あの人を。
 

 
「自殺願望があるかないかと言えば、ある。ずっと死にたかった。でも、死ぬことはできない。私の存在は私が確保してやるの。それに残された人のことを思うとどうしてもできない」
「死ぬことか。僕も漠然と死について考えることがあるよ。殊更、過去にトラウマがあってそれで苦しんで死にたいとかそんなんじゃないけどね。俺、思うんだよ。他人の生には興味がないくせに、他人の死には殊更言及したがる社会や人間たちが嫌いだよ。本当にお前らは生きてるのか?って」
「というと、何が言いたいの?」
彼女は努めて冷淡な口調で僕に問いかけた。僕も抑揚を少しだけ抑えて言った。
「つまりは、お前らは死んでないだけで、生きてないんじゃないかって。それすら判然としないくせに、喧しく世間は、人の、俺たちの死について文句をつけてくる。生きることを強要してくる。自死って言葉あるだろ? あれって自ら死を選び取ることなんだよ。そこには選択があるんだ。自由意志があるんだ。その行使を止める権利はあるのかって。社会通念上、それが正しいことになってることに俺は不満しか抱かない」
「そう。私もそう思う。でもさ、死にたくなってもさ、一緒に居ようね。今は君と一緒に居れて、生きていける気がする。笑えている自分が、君と居ることが夢みたい。幸せだと思う」
 僕たちの出会いと言葉のやりとりはゆっくりとそして鮮烈に進んでいった。魂だとか心だとか、それらに対して懐疑的であった僕たちは、それでも尚、互いの全存在を求めずにはいられなかった。いつも言葉たちを放ちあっていた。
 僕は彼女の過去と、僕たちの未来と共に朽ちていき、そして再生をしていくと勘違いして生きていた。その円環の中で生きていたのか、死んでいたのか、僕と彼女と、そしてあなた達にも分からない。
 
 
 
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人々が往々にして運命と呼ぶものは、概して、自分の愚行に過ぎない。
                          ショウペンハウアー
 
―2010年以降のお話であるとだけ明言しておこう。そうだ、君たちにとっては、二十一世紀は既に歴史として授業で扱うような時代かもしれないね。まあそんなことはどうでも良いか。さて、この話は作為的にぼかして記述している点がある。いやどうだろう。そんな余裕はないかもしれないな。まあ、いいか。掌編なんかと比較しても、そうだとは言い難い程の短さだ。付き合ってくれないか。これは僕のちょっとした記憶の整理なんだ。だから君たちは意味内容、つまりシニフィエまで追わなくてもいいんだ。記号、そうだね、シニフィアンとして読んでみたらどうだろう―
 

 
 これは昔の僕という存在と彼女という存在に関する記述だ。久しぶりに言語を、言語で思考しているから、少々不慣れな構造になることは許してほしい。全て、これで収束するはずだから。
 
 私たちは、〈インターネット〉で知り合った。その頃、ある場所に私は書き込んだ。「緩慢に生きたい」と書いた気がする。そのワードから恐らくこれを読んだ君たちはインターネットという海底に沈殿するヘドロのようなログの堆積を前にして「あ、これかな?」と探り当てることも可能だろうね。これを読み、それを見つけ出すのなら、君たちもまたワタシという人生の加担者になるよ。それでも良いのならご自由にね。
 まあ、それはどうでもいい話だね。どうせ、一度でも膨大に広がる情報群・ネット網に放り投げた言葉だ、もはや私の言葉ではないのかもしれない。なぜなら、宛てる相手がもはや居ないのだからね。それにそんな古めかしい端末にアクセスできるとは思えない。
 話を戻すと、それにたまたま反応した人が返信をしてくれたんだよ。少しばかりのビット数でしかない情報を選んだんだよ。確率論的に言うとどの程度なんだろうな。当時の彼らの精神状態を加味すると環境を広げられるのは仮想空間の中でしかなかったのかな。と考えると、割りかし妥当な出会い方、妥当な確率で出会ったのかもしれない。心身ともに必要とされるエネルギーは、君達にとっては特に、仮想空間の方が少ない時代なのだろうか。
 そして、まあ、色々とあって、穏やかな日も沢山あって、激情に駆られる日も沢山あって、本当に彼女を〈視て〉いたつもりだったみたいだ。だけど、それは〈彼の視た〉彼女の表象でしかなかった。彼女は、意図的に「彼にとっての彼女自身」を演じていたんだと思う。まあ、そういうことは結果論でしかないから、今更実証することなんて出来ないんだけどね。彼は抱いていたんだよ、勝手に女性に対する幻想をね。随分古風な気がするけど、こういう感じで出力していいのか定かではないな、申し訳ない。
 話は戻るけど、薄々、その演技性は感じていたんだ。だからこそ、彼女の自然体を見たかった、そうやって過ごせるように力になりたかったんだよ。「あっ、この人と結婚したい、するかもしれない」という初の実感は、功罪があったようね。結局は、別れた訳だから、これらは〈言葉たち〉の独白なんだ。申し訳ないね、少し休むことにするよ。思ったより、このやり方は疲弊というものを起こすらしい。驚いているし、これが疲労なんだな。
 

 
 こんにちは。ああ、ごめん、たぶんさ、今はお昼時なんだよ。というのも、十二時か、二十四時か判らないんだ。ちょうど針たちがくっついているものだから、それがどちらなのか分からないんだ。こうしたものを使うことになるとはね。まあ、意外と楽しいもんだね。
 話を戻そうか。つまりこうして、まだ君たちがこれを読んでいるということは、どうやらこの文章は散逸せずにどこかの仮想空間を漂流しているんだろう。その断片、要は言葉たちの欠片が集積・統合されているのかもしれない。それはあくまで推測でしかないんだけど。
そうだ、気になるだろうから、もう少しだけこの「脳」に揺蕩う思考のクラゲたちをお見せしておこうと思う。
そうだね、簡単に言えば、複合的な要因が彼らを切り離したんだよ。
 あいつにとっては、そのことが、それまでのことが、理解できないのではなくて、受け入れることができなかった。そうしているうちに、アレはいつの間にか、幾年も呆けて生きていた。生きてすらいなかった。死んでないだけで、それは生を体現しているとは言えないものだった。
 でも、これまでの話は気にせずに居られるんじゃないかな。なぜなら、もはやこの文字という記号がこうして〈視覚的〉に捉えられるモノではないんじゃないかい?それとも、まだ目という器官から情報を得ているのか?そこまで把握しきれないんだ、ごめんね。
取り敢えず、君たちは思うだろう。「では、今は? あなたは?」と。
 そうだね、今がいつなのか、これを書いているのがそもそも本当に今日なのか。今日っていうのは僕にとっての今日だ。いや、それとも明日なのか。数年先なのか、それは僕にも君たちにも分からないことだろう。ボクとキミの差は何なんだろうか。いま、こうして共に言葉という情報を、一緒にさ、追ってるじゃないか。そこには境界みたいなものはなくて、曖昧な融合があると感じているけど。
まあ、いいよ。そうだ、人はさ時間によって支配されているんだっけ。時間を認識するよね?多分。認識できているか、つまり、正しくね、それは分からないということになっているじゃないかい。
 つまり、我々は未来を想像できる生物であるからこそ、その時間という枷を身に付けたまま生きるしかないんだ。時間によって世界は、私たちは存在せざるを得ないと思うな。時間が実存を与えるんだ。そう思いたいのだろうね。誰だったかな、とある哲学者が居て、彼は〈存在〉について思考した人物だ。色々とあったから、評価も別れたりするんだけどね。まあ、こんな話をしても面白くないね。もし、君たちが〈本〉というものを手に入れられるのなら読んでみるといい。僕の言葉はあくまでそれっぽい戯言でしかないはずだからね。
 そろそろ、時間が迎えに来たよ。ことばたちに実存を。われわれに実存を。そして君達に実存を。そうだ、〈実存〉を与える為に時間が否応なしに迫ってきている。じゃあ、また会うことを期待して筆を休めることにするよ。きっと僕たちは、君たちと、そして彼たちと―
 
 
「ありがとう。じゃあ、またいつの日かね、きっと」
 
 
 数分で、この文章を出力し終えた。
 
 
 これで、〈存在〉は、言葉・言語という茫漠で、壮大な文法によって支えらえて、どこかで、いきているはずだ。