『わたしの備忘録』

『わたしの備忘録』

ご機嫌よう。仮想のわたしだよ。徒然なるままに「わたし」がブログを更新するの。「わたし」の便宜的説明はサイト下部かサイドバーへ。

掌編『ある夏のいつか』

『ある夏のいつか』
 

    眠れない僕は糸筋ほどの朝日を背負って、産まれたばかりの白い蝉を見た。
    不眠の原因は特に無かった。誰かが死んだとか、自分の身に何かあったとか、そんな類のものは一切無かった。今夏が記録的な猛暑であったとしても、僕には関係が無かった。ただ漠然とした不安は何故かあったが、これはもう一種の性格と言って良かった。原因が無いなんてそれこそ「無い」んだよ、そうなると逆に良くないね、うん。医者はそう言っていた。こう見えても、不眠を侮ることはせず、自分で医者に掛かりに行ったこともあった。それでも、原因療法を望む気にはなれずに、対症療法をお願いした。
「僕としては、朝方に用事があると困りますので、とりあえず様子見で眠剤を頂きたいんですが」
「うん、そうか。そうだね。何か心当たりがあればまた来なさい。夏バテかもしれないしね。お大事に」
    用事なんて無かった。夏が終わるあの朝の、あの透き通った冷涼を感じるために眠剤は必要だった。今年の夏は猛暑ながらも、日陰に居ると存外過ごしやすかった。冷房が嫌いで扇風機をつけて窓を開けている。薬を貰っているのだから夜までは寝まいと思っていたが、抗えなかった。
    雨音のせいで目を覚ますと、夕立が親の仇のように降り出していて、室内は夏の匂いで溢れていた。人の抜け殻になった衣類を洗濯機に入れ、僕は外に出た。思いの外、雨は降ったらしい。街全体に打ち水を引っ掛けてくれたおかげで、思い切った涼しさがあった。家の近辺は都会の田舎、郊外にあたる地域で、整地された道路や左右対称に植えられた木々が所々見られた。それは国道付近のことで、少し路地に入り込むと雑然とした街並みもあって、僕はそこが好きだった。
    少し歩いて小さな公園に行くと、子供が蝉を捕まえていた。「雨宿りしてるぜ、こいつ」「アブラゼミなんかより、クマゼミ捕まえようよ」「この辺には、クマゼミは居ないんじゃないかな。あ、ヒグラシは居ると思う」三人組の男の子たちは虫かごを提げ、右手に虫網を持ち、左手で鳴き疲れた蝉を掴んでいた。目当ての蝉が居ないらしい。
「えー、クマゼミってこっちに居ないのかよ」
「他のなら枝のとこに何匹か居るけど、届かないね」
「じゃあ、山のほうに行ってみよーよ!」
    すると、その中の一人が当てつけのようにして、幹を強く蹴った。鳴き続けていた彼らの声は一層と大きくなり、街全体を震わせた。
    僕にも子供だった時期はあった。あったはずだ。これから歳を重ねる度に所有していた過去を見返すんだろう。嫌になってくる。いずれ、夢想する未来よりも思い出す過去の方が大きくなり、それらが僕を追い立てることは自明だった。僕らが何をしようと、ある季節が終われば別の季節が始まる。帰り道、僕は虚の中で蝉の死骸を見た。
    家路についたのは陽が落ちた後だった。部屋からは夏の匂いが消えていた。僕は夏が、夏の匂いが、夏の空気が好きだ。夏を嫌いにはなりたくなかった。でも、好きなものの中に吐き気のする表情を見つけてしまうことがある。大規模な打ち水のせいで、今度は蒸れている。汗なのか湿気なのか判別ができない。冷凍庫から氷菓子を取り出して高窓付近に座った。濃くて生暖かい塊が身を打ってくる。僕は氷と思考を溶かすように食べ続けた。
    眠剤のおかげで気怠い眠気はあるものの、早朝に瞼が開いた。窓の外からは何も聞こえない。産まれたばかりの蝉がまだ鳴いていないのか、それとも蝉は死んだのかわからない。ヒートアイランドとは程遠いこの街はまだ眠っていた。風は無く、ただひっそりとそこには冷涼があった。
    僕は夏の終わりを感じた。ある朝の、ある風の、ある匂いを、ある温度をふと感じる。これが来ると僕の夏は終わる。
 

 

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